Japanese Music Reviews

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【氷室京介】10 FOLLOW THE WIND(2003)

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10 FOLLOW THE WIND(2003)

今回は、氷室京介10枚目のオリジナルアルバム、「FOLLW THE WIND」をご紹介します。
10枚目という一つの区切りになるアルバムですが、その内容を見るに、今までの総括的なアルバムとも言えそうです。氷室京介が探し続けていたもののひとつの答えがここに出たのではないか、という気がします。それはいったいなんなのか、これからお話ししていきましょう。

BOØWY時代から、氷室京介にとってロックとはまずアメリカ・イギリスのものであり、それを日本人である自分が、海外の音楽にも負けない、また自分自身納得できるロックを作ること、というのが、自分に課した課題だったのではないか、と仮定します。これは、少なくとも80年代以前にロックを自作自演していた人ならば、誰でも等しく持っていた問題意識だったのではないかと思います。

しかし、自身のアイデンティティー、リスナーが求める日本的な楽曲、レコーディングの技術的な課題などがあり、単に洋楽的な曲を作るだけでは済まない中、作家それぞれが試行錯誤の上、自分の納得できる折衷案を作り上げていった。それが80年代までに登場した日本の音楽家たちの一つの流れだったのだと考えています。

そして、本題にもどれば、氷室京介もそのうちの一人であり、その折衷案の一つの完成形が、このアルバムだったのではないかと思います。
では、その完成形とはいったいどのようなものだったのか。それは、洋楽的なサウンドをバックにした歌謡曲。言ってしまえば何の新しさもなさそうなことですが、それをかなり高度な次元で実現したのが本作でしょう。

「VIRUS」や「WEEKEND SHUFFLE」ではラップにも挑戦しているし、全然歌謡曲ではないのでは、と思われるかもしれませんが、歌自体は歌謡曲的ですし、ラップは今っぽさを演出するための手段に過ぎないと思います。このラップ自体、ほとんど韻を踏んでませんし、むしろラップ的な歌いかたと言った方が正確だと思いますが。

サウンド的には、90年代末から2000年代はじめまで流行っていたニューメタルからの影響が濃いですが、そういった今の音を取り入れつつ、日本的なメロディを歌うことに照れがなくなったのではないか。一種の開き直りともとれますが、アルバム全体を通して、一種のすがすがしさを感じるのは、それが理由なのだと思っています。

僕としては、こういう折衷案より、「SHAKE THE FAKE」や「Higher Self」で見せていた、日本語でも洋楽的に聴こえることを目指していた作品の方が魅力的に感じます。歌謡曲的なものは、ロック本来の持つ爆発力があまりないですから。「SHAKE THE FAKE」までに見せていた泥臭いロックンロールで固めた作品の方が音楽的なインパクトがあったと思いますし(実際、2000年代の世界的なロックンロール・リバイバル、ガレージロックブームに共鳴できたかも)、その方が唯一無二の個性をより発揮できたのではないかと思わずにはいられません。

しかし、良くできた作品であることには変わりありません。アルバム全体としてまとまっており、シングルの「Claudia」はいかにも氷室京介的なメロディの曲(ただサビのメロディを追うキーボードがちょっと90年代的過ぎますが)ですし、タイトル曲の「FOLLW THE WIND」は、歌謡曲として素晴らしいと思います。ここにも氷室京介の魅力が発揮されているのは間違いありません。